海自史上最大の作戦とは?~軍港・猿島であの日何があったのか?【3・11を忘れない】
「3・11」から12年。
この、決して忘れてはいけない日付の裏側には、たくさんの人の悲しい思い出が隠れています。
海をフィールドに仕事をしている私たちも、その例外ではありません。
あの日、横須賀の「軍港」と「猿島」で何が起こったのか──。
小さなストーリーかもしれませんが、だんだんと震災の記憶が薄れてきつつある今だからこそ、しっかりと思いださなければならないと思います。
今回は、過去「YOKOSUKA軍港めぐり公式Facebookページ」「無人島・猿島公式Facebookページ」に掲載した内容を再掲します。
あの日、海上自衛隊はどう動いたのか?
そして、猿島では何があったのか?
──そのサイドストーリーをお届けします。
私たちはもう一度当時を思い出し、安全への思いを新たにしていきたいと思います。
【CASE1】史上最大の作戦――「さわゆき」が眺める港
横須賀港に居並ぶ艦船の中で、ただ1つ、艦番号が書かれていない船があります。
2013年4月に除籍となった、旧護衛艦「125 さわゆき」。
YOKOSUKA軍港めぐりからは正面をよく見ることができます。
大砲をはじめとしてさまざまな機器が外され、喫水線が見え、風雨にさらされているせいか、あちこちにキズが目立つようになりました。
実は、まだ現役だった4年前の今日、「さわゆき」はとても重要な役割を果たしました。
2011年3月11日(金)午後2時46分、東日本大震災が発生。
横須賀も大きく揺れ、港内は波が立っているのがはっきりと目視できるほどだったと言います。
その直後の午後2時52分には、早くも自衛艦隊司令官が出動可能な全艦艇に出港命令を出します。
ここから、海上自衛隊の長い闘いが始まりました。
当時横須賀港に停泊していたすべての艦艇は直ちに出港準備を始め、発災からわずか43分後の午後3時39分、真っ先にこの「さわゆき」が港を離れ、いち早く被災地に向かったのです。
その後、午後3時45分に試験艦「6102 あすか」が出港したのをはじめ、横須賀港の艦艇を含むおよそ60隻の艦船が東北沖に集結。災害派遣作戦が展開されました。
その中で「さわゆき」は、一番最初に被災地に行き、最後まで残って活動をしていた護衛艦なのです。
しかも、震災が起きた時間は横須賀基地から車で20分ほどの場所にある武山基地で、ちょうど昇任試験が行われていました。
つまり、各艦艇では中堅クラスの乗員が軒並み不在のまま、史上初の事態に対処しなければならなかったのです。
ところが、(これは当然のことですが)各艦は少ない乗員で整然と出港準備を急ぎ、次々に被災地へ向かいました。
偶然とはいえ、海の見えない場所で事態に遭遇した試験中の皆さんは、さぞかしもどかしい思いをしたでしょう。
その後、内火艇(ランチ)などで艦船を追い、館山沖で乗り込むなどして合流したと言います。
一方、横須賀港に今日も停泊している護衛艦「181 ひゅうが」も、災害派遣で活躍した1隻。
この船は、米軍が展開した「トモダチ作戦」との調整役としても、重要な役割を果たしました。
しかもこの船は震災当日はたまたまドック入りしていたのですが、何と翌日には被災地に駆けつけるという離れ業をやってのけました。
この「ひゅうが」は転籍のため、まるで3.11を見届けるようにして、間もなく横須賀を離れ、京都・舞鶴基地へ旅立ちます。
本日は、横須賀港の全艦船が半旗を掲げています。
でも、「さわゆき」には旗すら揚がっていません。
それでも、海をまっすぐに見ている「さわゆき」。
【あの日を、決して忘れるな】――
この船は、まるで私たちにそう伝えているように思えます。
海上自衛隊史上最大の災害派遣を、この船は横須賀港の片隅で、静かに伝えているのです。
※2015年3月11日掲載(写真も)
<2023年追記>
「181ひゅうが」は現在、舞鶴に所属。
当時海上自衛隊の各船は〝最大船速〟で東北へ向かったとのことです。
後にも先にも、その速度はほとんど記録にないという話もあります。
【CASE2】「いちばん海面に近い場所」での救援活動 ~〝最強のスペシャリスト〟が挑んだ海
あの日から、5年。
今日の横須賀港は、米空母「ロナルド・レーガン」をはじめ、日米すべての艦船が半旗を掲げています。
その中で、長浦港の奥にぽつんと停泊しているのが、掃海艦「301 やえやま」。
全長67mで、ベイマツやケヤキを素材にした木造なのは、海中の磁気機雷に対応するため。
木造船としては世界最大級の大きさです。
実はこの船は5年前の今日、重要な役割を果たしました。
14時46分、東日本大震災が発災。
それからわずか6分後の14時52分には、自衛艦隊司令官が出動可能な全艦艇に出港命令を出します。
ところが、年度末ということもあり、海上自衛隊では艦船の修理が重なるなど、必ずしも万全の体制ではありませんでした。
掃海部隊でも、修理やシンガポールでの訓練のために多くの艦船が出港していました。
なんと当日は、国内で稼働できる掃海艦船はこの「やえやま」1隻だけだったのです。
「やえやま」にも緊急出港が発令され、慌ただしく準備が行われましたが、そこで重要な判断がありました。
横須賀にいた水中処分員(EOD)を4名、乗艦させたのです。
「水中処分員」は、海中の機雷や不発弾を処理するスペシャリスト。
YOKOSUKA軍港めぐりからは、よく吾妻島の近くでゴムボートに乗って訓練をするEODの姿を見ることができます。
海上保安庁の〝海猿〟の指導役でもある、まさに日本最強のスペシャリストたちです。
さて、緊急出港時にEODを乗艦させたのには理由がありました。
1993年に発生した北海道南西沖地震で、奥尻島の津波被害に対応して掃海部隊が出動した際の教訓が生きていました。
発災翌日の昼に石巻に到着した「やえやま」は、直ちに救助活動に移るとともに、先遣隊として重要な役割を果たしたのです。
一方、シンガポールに向かう途中に沖縄に停泊していた掃海母艦「464 ぶんご」ほか掃海部隊は、沖縄のEODも乗せて全速力で横須賀へ向かいました。
そこで救援物資のほか、実に100名を超えるEODを各地から集め、すぐに被災地へ向けて出港しました。
その中には、潜水艦救難母艦「405 ちよだ」所属のEODも含まれていたといいます。
こうして展開された掃海部隊とEODの救援活動。
護衛艦などの大型艦船が散乱するガレキなどでなかなか港に近づけない中、ゴムボートに乗って俊敏に動き回ることができるEODは、その実力をいかんなく発揮します。
水中の視界が1mもないような状況の中で彼らは救助活動を行い、多くのご遺体を収容。
さらにリアス式海岸で入り組む地形のうえ、陸上や空からの救援がまったく届かない海沿いの集落にゴムボートを使って上陸し、けが人を収容し、救援物資を届け、行政に代わって情報をもたらしたのです。
どんな困難な状況でも果敢に海に挑み、黙々と任務を果たす〝最強〟の部隊。
あまりクローズアップされることのない地味な役割ですが、彼らがどれだけの人を助け、大切なご遺体が流されるのを防ぎ、人々に安心感を与えたかは計り知れません。
こうして、最も海面から近い場所で展開された救援活動は、長い間続きました。
1993年に就役した「やえやま」は、艦齢23年。
すでに巨大な木造船の繊細な構造を造り上げる職人がほぼいないことから、繊維強化プラスチック(FRP)製の掃海艇が次々と誕生しています。
そう、今ではこの船はロストテクノロジーの象徴として、貴重な存在になってしまっているのです。
「やえやま」が5年前の今日、緊急出港した横須賀港。
その教訓と実績は、きっと今後もさまざまな場面で生かされていくことでしょう。
そして今日も、EODの隊員の皆さんは、黙々と訓練を続けているのです。
※2016年3月11日掲載(写真も)
<2023年追記>
「やえやま」は2016年に退役。
後継の掃海艦は「304あわじ」「305ひらど」があります(両方とも横須賀基地所属)。
FRP(繊維強化プラスチック)製で、最新艦の「306えたじま」は世界最大級のFRP船!
【CASE3】無人島・猿島、25人の脱出
あの日の猿島。
穏やかな昼下がりを迎えていた時、ゆっくりとした揺れが始まりました。
「これは大変な地震だ」──その瞬間、管理人の頭にはとっさに「25人」という数字が思い浮かびました。
大きな地震があると、津波の引き波によって湾内の水位が下がり、船を桟橋に着けられない可能性があります。
この時に思い浮かんだ「25人」は、当時島にいた人の人数。
この25人を素早く島から退避させないと孤島となってしまうのです。
管理人は直ちに船と連絡を取り、出動を要請。
「シーフレンド1」が救援に向かいました。
一方、猿島ボードデッキには島内各所から人が集まってきていました。
その人数を数えると・・・ぴったり25人だったのです。
すぐに桟橋へ誘導すると同時に、猿島の発電機ほかの機器をすべて停止。
やってきたシーフレンド1に25人のお客様とスタッフ全員を乗せ、島を脱出したのです。
後でわかったことですが、船長がふと猿島を見ると「島が大きくなっていた」というのです。
そう、この時すでに水が引きはじめ、島の周りの岩礁があらわになっていたことから、島が大きく見えたというのです。
こうして全員が脱出したのが、15時半頃。
これが少しでも遅かったら、島が孤立していた可能性がありました。
ここから、今度は船舶の長い時間がはじまります。
お客様を無事に三笠桟橋へお届けしてホッとしたのもつかの間、横須賀港長から東京湾内の全艦艇に港外退避勧告が発令されたのです。
スタッフは休む暇もなく、2人ずつチームを組んで船に乗り込み、全船舶を次々に出港させました。
その時当社が所有していた船は「シーフレンド1」「シーフレンド2」「シーフレンド3」「シーフレンド5」、そして作業船の「ヴェルニー3」の5隻。
その後、結局夜中まで港へ戻ることはありませんでしたが、情報も食料もない中で、たまたま1つの船に積載してあったスナック菓子を“洋上補給”するなどしてひたすら待ち続けたのです。
一方、同じ海では、多くの尊い命が奪われました。
トライアングルの全船舶は、災害が起きた時に要請があれば避難者や病人を輸送する船に指定されています。
あの日のことをきちんと胸に刻み、これからに生かしていくこと──。
私たちは気持ちを新たにして、毎日の安全運航を続けてまいります。
※2013年3月11日掲載(写真も)/一部加筆
東日本大震災により、お亡くなりになられました方々のご冥福をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様に対しまして、あらためて心よりお見舞い申し上げます。
※上記の記事は掲載当時、一部関係者への取材に基づいたもので、海上自衛隊等からの公式なものではありません。
※艦船などの情報は掲載当時のものです。
この記事を書いた人
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