【ツアーも開催】「第二海堡」異空間をあるく!【阿部ちゃんの超マニアックレポ】
今から約120年前に築造された東京湾要塞の3つの人工島の一つ、第二海堡。猿島の沖に浮かんでいるのがよく見えるこの島だが、プレジャーボートや釣り目的の渡船などでの上陸は禁止されている。そのため姿や名前は知っていても、上陸した経験のある方はほとんどいないのではないだろうか。
そんな第二海堡に一般人が唯一上陸できる機会が、旅行会社が開催する上陸ツアー。今回は2023年8月19日に開催された上陸ツアーに同行し、120年の時を越えて佇む要塞島に潜入した。
【INDEX】
■はじまりは三笠ターミナル
■第二海堡へ向けていよいよ出港
■大型船が間近!浦賀水道を横断
■およそ30分かけて第二海堡へ上陸!
■上陸ツアーならではの遺構見学
■随所で感じる数奇な歴史
■明治設置の灯台と最新のテクノロジーが同居
■120年の時を超えた〝現役〟の島
■はじまりは三笠ターミナル
ツアーの出発は猿島航路と同じく三笠公園のターミナル。窓口で受付を終えて2階へ上がると、第二海堡に関する解説や築造当時の様子を再現した精巧な模型が並んでいる。高角砲や掩蔽壕といったポイントが並ぶマップを見ると、普段足を踏み入れることがない戦跡見学への気分が高まっていく。ターミナル2階はツアーの集合場所でもあるので、出発前にここで予習をしておくと上陸時に島の全体像をすぐに把握できるだろう。ツアー参加者にはここでパンフレットが配られ第二海堡に関する簡単な説明があるので、筆者のようにはじめて戦跡見学をする人でも安心だ。
■第二海堡へ向けていよいよ出港
猿島行きの船を見送ると、いよいよ第二海堡上陸ツアーで乗船する船が着桟する。今回の配船は二階席前方のパノラマシートが大人気のシーフレンド1。コンパクトながら参加者50名とスタッフが乗船しても収容力に余裕のある船で、気分に合わせて自由に移動しながらクルーズが楽しめる。ただし航海中は大きく揺れることがあるため、乗船中の移動は注意して行おう。
出航して海を見渡すと、海上自衛隊横須賀基地から出航する日本の潜水艦の姿が。運が良ければ軍港めぐりからは見られない角度から日米の艦船を見ることができ、戦跡マニアも艦船マニアも両方満足できるのは第二海堡行きロングクルーズの大きな魅力だ。
■大型船が間近!浦賀水道を横断
出航してしばらくすると、船はいよいよ浦賀水道を横断する。
日本でも有数の輻輳海域である浦賀水道は、朝から晩まで常に大型船が行き来する。200メートルもある大型船の至近距離をすり抜けていく様子は、機動力の高いこのサイズの船でしか見ることができない迫力満点の景色だ。コンテナ船、バラ積み船など様々な種類の船を熟練のガイドの解説付きで見ることができるので、このタイプの船に馴染みのない艦船マニアでも安心だ。
シーフレンド1のような小型船が大型船のすぐ近くを航行すると、通常は大型船の起こす大きな航跡波につかまって船体が激しく動揺してしまう。航行の仕方や船体の条件によっては船底が波に弾かれてしまうこともあり危険を伴うのだが、ここは船長の腕の見せどころ。巧みな操船で波と交差する角度や速力を調整し、するりするりと大波をかわしていく。立ち上がってカメラを持つ人も多いシーンだが、大波を乗り越えたことにも気づかないほど安全な航海を実現しているのはまさに驚きである。
囲の波や船を確認しながら、追い波に船をうまく乗せて全く揺れのない操船をする泉谷船長。1階のデッキから海面を見るといくつも連なる航跡波にぴったりと貼り付いて航行している様子がよく見え、巧みな操船技術を目の当たりにできる。まさに船長の熟練の技がいかんなく発揮される場面、その操船にもぜひ注目だ。
浦賀水道を横断すると、はるか遠くに見えていた第二海堡がいよいよ間近に迫る。「軍艦島より軍艦らしい」という風貌で、遠くから見るとその姿はまるで進水直後の戦艦のようだ。実際、横須賀市内の海岸から遠方の第二海堡を見て艦船が入出港していると勘違いしてしまう人もいるほどである。標高は低く平坦な島影だが、ここまで近づくと鉄塔や灯台、ソーラーパネルなどが見え、無人島とはいえ今もしっかりと管理されていることが分かる。航海中は島の南西側が見えているが、このあと船はぐるりと回り込んで北側の桟橋に着岸する。
■およそ30分かけて第二海堡へ上陸!
いよいよ第二海堡に到着し、上陸である。北側新桟橋は昭和期に増築されたものと言われているが、すぐ西側には明治期に最初に作られた旧桟橋が半分水没した状態で現存しているのが見える。第二海堡北側擁壁と同じように四角い間知石を積み上げて構築されており、1世紀以上経っても崩れずに現存している強固な建築物である。さらにその沖合には水没しかけた石組みが見えるが、これは第二海堡桟橋を守るために建設された日本初の防波堤だという。大部分が海中に没してしまい現在はわずかに顔をのぞかせる程度だが、今も現役で活躍しているのだ。
第二海堡は陸軍によって築造されたが、上部の砲台部分は関東大震災によって地盤沈下や傾斜など甚大な被害を受け放棄されてしまった。しかし強固に作られた基礎部分は崩壊することなく、現在までその姿をとどめているのどころか構造物として現役なのである。現在はケーソンなどを沈めて作るのが一般的な防波堤だが、第二海堡の防波堤は間知石をしっかりと積み上げて作られた強固なものになっている。東京湾の真ん中に一から建設された第二海堡は、日本の港湾建設技術の礎としても大きな記念碑的存在なのである。
上陸後は熟練のガイドの説明を聞きながら戦跡見学。砲台や掩蔽壕といった設備はレンガのほかに当時最先端の鉄筋コンクリートを併用して作られており、ここが当時最先端の軍事拠点だったことが伺える。レンガ造りの猿島の建物群などと比べてコンクリート製の砲台座は「歴史ある戦跡」感が薄いようにも感じられるが、丸い擁壁や壕へつながる階段、開口部などを見ると確かにここが軍事拠点として作られた施設であることが分かる。一見すると普通の廃墟のようにも見えてしまい、さらに灯台管理などに用いられた後世の遺物とも混在していて分かりづらいが、逆に現代の技術と並んでも見劣りしないほど先進的な技術で建設されたことが実感できるというものだろう。鉄筋コンクリートが70年以上も過酷な海上で風雨に晒されてほぼ完全に原形を保っているというのは驚異的だ。
■上陸ツアーならではの遺構見学
島の西端に向かって斜面を降りると、戦跡とは似つかない近代的で巨大な護岸が目に入る。終戦時の破壊工作や自然風化も進んだ第二海堡は、地震や台風といった災害で島体が崩壊する危険性がある。しかし浦賀水道のド真ん中に位置しているためもし崩壊すれば航路に土砂が流れ込んで船舶の航行が困難になる恐れがあり、そういった危険から船と島を守るための護岸が建設されているのだ。第二海堡本体の海岸が残っているのは、島の北側の船着き場周辺と南側の新桟橋周辺のごく一部だけなのだ。この護岸によって島の面積は幾分大きくなっており、拡大された部分は島内から見ても一般の埋め立て地とほぼ変わらない姿になっている。そんな第二海堡西端には、レンガ積みで作られた掩蔽壕の遺構が露出している。元々は地下壕であったが度重なる災害や侵食、さらに終戦時の破壊工作によって、現在では天井が抜けた地下室のような形で地表に現れている。レンガで組まれた壕にはいくつもの部屋が見え、さらに防湿性を高めるために塗られた白い漆喰まで綺麗に見ることができる。第二海堡でも随一の「戦跡らしい」遺構の一つだ。コンクリートの護岸に囲まれた真ん中にレンガ造りの遺構がある様子はまるで海から遺跡を厳重に保護しているようだ。沖ノ鳥島を彷彿させるような面白い光景である。
南側に向かって歩いていくと、東京湾口に向かってそびえる砲台部分が見えてくる。これも本来は地中に隠れていた部分で、現在は風化によって露出している。いかにも要塞といった趣の砲台は、よく見るとコンクリートに層のような跡がついているのが見える。当時の技術ではコンクリートを木枠に一度に流し込んでしまうと重みでその重みで崩壊してしまうため、何度も少量ずつコンクリートの充填、硬化を繰り返した跡だという。先ほど上から見た小さな砲台の下に壮大な台座が眠っているとは、地下に遺構が続いていると言われても想像がつかないものだった。実物は写真で見るよりも数段スケールが大きいものなので、上陸した際には是非その驚きを体感してほしいものである。崩壊してしまっている部分からは当時用いられた鉄筋が姿を見せている。こちらはボロボロに腐蝕して流木のように姿が変わってしまっており、海上という環境の過酷さが伝わってくる。島の南側でひときわ目を引くこの砲台には、第二海堡を表す「FORT NO.2」という白い文字が書かれている。しかし長年の劣化によってほとんど見えなくなっており、このツアーに参加しなければ間近で確認することができないそうだ。
■随所で感じる数奇な歴史
さらにここまでのツアーの道中では、地面に桜マークの煉瓦片や鉄筋といった建築部材が多く転がっている。通常の赤っぽい煉瓦のほかに、表面を黒っぽく焼成して耐水性を持たせた「焼きすぎ煉瓦」など珍しいものも探すことができるので移動中も退屈することなく宝さがし感覚で歩けるだろう。煉瓦に刻印された桜マークにも様々な種類があるので、状態の良いものを見つけたらじっくり観察してみるのも面白い。何気なく上を歩いている砂利も全て明治・大正期に陸から船で運んできたものだと思うと感慨深いものである。
西端から南側を通って第二海堡の中央部までやって来た。ここには当時の戦艦の主砲に匹敵する威力を持つ27センチ砲塔カノン砲が設置されていた。これまで見てきた砲台のようにコンクリートによる強化構造でつくられ、中華鍋を伏せたような丸い天蓋で装甲されていたという。地上には一部の遺構しか露出していないが、この砲の弾薬庫、給弾室、動力部なども全て地下に隠顕されているため前述のような壮大な構造物が地下に埋まっているのだ。しかし、この遺構の上に立つとその上面が大きく傾斜していることに驚くだろう。特に重量があったこの砲は、関東大震災によって台座ごと傾斜し甚大な被害を受けてしまったのである。自然の力の脅威を感じざるを得ない。
砲座の東側には中央部砲塔観測台の遺構がそびえ立っている。陸軍に移管されて以降は防空指揮所として使われていたこの建物は、コンクリート製の土台の上に煉瓦でできた防盾が組まれた構造になっている。戦跡らしい戦跡は地面に埋もれたものが多いため、しっかり建物の形で現存している中央部砲塔観測台はまさに東京湾要塞としての第二海堡のシンボルといえよう。過去にはその独特な景観から映画撮影などにも使われたそうで、ガイドがその映像の切り抜きを紹介してくれる(権利の関係上撮影NG。ざんねん)。
■明治設置の灯台と最新のテクノロジーが同居
さて、この中央部砲塔観測台から後ろを向くと巨大なソーラーパネルが目に入る。実はこの第二海堡、ソーラーパネルをはじめとしてコンクリート護岸や様々な機械設備、真新しい引き通し配線など、「戦跡らしさ」とはほど遠いものが数多く設置されているのである。第二海堡のソーラーパネル群は、2011年に海上保安庁が5億円をかけて設置した。合計192枚、約700㎡もの規模を誇るもので、一日の発電量は50kWにもなる。これだけのソーラーパネルを何に使うかというと、第二海堡灯台の電源だ。以前は発電機を設置して燃料タンクに燃料を補充していたが、このソーラーパネルによって燃料補給が不要になり省エネ化、省力化、さらに災害時にも安定して稼働することが期待できるという。
第二海堡灯台はこの島が海上に姿を現した明治27年9月に点灯し、現在の設備は昭和58年に改築されたものだ。この灯台の隣には、昭和期に建設され第二海堡灯台の電源として働いていた燃料タンクの台座の遺構が見える。GFRP製で、叩くと「ボン…」という空洞のような軽い音が響く。この灯台の高さは第二海堡付近の水深とほぼ同じ約12メートルで、第二海堡築造工事のスケールを感じるものさしとしても分かりやすい。これを深いと思うか浅いと思うかは見る者の感じ方次第だ。
手前から旧海軍高角砲指揮・照準陣地、第二海堡灯台燃料タンク跡、ソーラーパネル群。時代の違うものが同じ画角の中にいくつも存在している。なんとも不思議な光景だ。
さらに島の西端には東京大学地震研究所の地震観測設備が設置されている。ここで得られた観測データは無線LANで富津岬の別の観測点へ送信し、そこを経由して地震研究所に24時間365日リアルタイムで送られている。この観測所は首都直下地震防災・減災特別プロジェクトの一環として、首都圏で発生する地震や地質構造の全容を把握することを目的として設置された。約400か所の同様の観測設備で構成される首都圏地震観測網、通称MeSO-netの観測点として2008年より稼働し、私たちの暮らしを守るための研究に役立てられている、そんなすごい設備の一角がこの第二海堡に設置されているのだから驚きだ。海面下9m まで掘削して地震計が設置されているが、その掘削中には砲台や壕の遺構と思われる空洞を掘り抜いたり、人工島の基礎部分である海水に浸かった砂礫層などが障害となったりする難工事だったそうだ。このフェンスの下にそんな設備が埋まっていると思うと、眼下に見えるレンガ造りの掩蔽壕もまた違った見え方になるのではないだろうか。
第二海堡のシンボル、中央部砲塔観測台から視線を南に移すと、グルグルと回転する大きなレーダー塔が。このレーダーは浦賀水道を行き交う船の位置を監視し、海上交通管制や海難事故の防止に役立っている。島の中央部北側には消防の特殊火災訓練設備があるのだが、この設備の画像が出回ってしまうと抜き打ち訓練にならないという理由で撮影が禁止になっている。黒く煤が付いた船舶のブリッジや石油コンビナートを模した設備が並んでおり、なるほど大規模な訓練設備という様子だった。これも是非実際に上陸して確かめていただきたい。
第二海堡の中央部から西半分を一周し、船着き場へ戻ってきた。再びシーフレンド1に乗船し、第二海堡を離岸する。今までは出航後そのまま三笠ターミナルへ帰港していたのだが、2023年8月からは帰港前に第二海堡の周りを一周して島の全景を眺めることができるようになった。
北側の桟橋を離岸したのち、時計回りに第二海堡を観察する。島の内部から護岸の様子を見てからだと、元々の海岸線と護岸の違いがはっきり認識できる。さらに南側へ回ると綺麗に整備された護岸に青色が眩しいソーラーパネル、通信用の鉄塔、レーダー、波浪観測所といったたくさんの近代的な設備が目に入る。その中に佇む中央部砲塔観測台はむしろ異質な存在に見えるが、かつての砲台の台座にペンキで書かれた「FORT NO.2」の文字だけが確かにこの島が要塞として作られた人工島であることを物語っている。
■120年の時を超えた〝現役〟の島
帰港する船から遠ざかる第二海堡を眺めつつ、今回の上陸ツアーを振り返った。第二海堡が100年以上前の貴重な戦跡であることは言うまでもないのだが、全体にかなり手が加えられているため「当時の時間が封入された手つかずの戦跡」の探訪を望んでいる人は期待外れに思うかもしれない。「史跡 第二海堡」という響きを聞いただけでは、この人工島がすでに役目を終え、荒廃して時が止まっている、そんな印象を受けるのはもっともである。実際、筆者も上陸して見学するまでは「日本のポンペイ」のように要塞の残骸が広がっているものだと思っていた。しかし、補修された島体や様々な現代の設備は「第二海堡」という人工島が120年の時を超えてなお現役で活躍し、私たちの暮らしを支えているという証明に他ならない。そして第二海堡の現代での活躍を支える最新設備はかつての砲台や掩蔽壕の上に設置されており、第二海堡が歩んできた激動の歴史やその役目の移り変わりをこの目で見て、さわって、直に感じることができる。
海上要塞としては不要となり、平和の道を歩み始めた戦後日本で撤去の検討もされたことがある第二海堡。かつて東京湾の真ん中に要塞があったこと、そんな島が手段を変えつつ今もなお我々の生活を守ることに貢献していること、それを支える優秀な土木技術が120年も前に存在し、多くの人の手によってつくられたということ。これらすべてを自分の足で踏みしめて知ることができ、時の流れと歴史を感じられること。これこそが第二海堡上陸見学ツアーの本当の価値なのであろう。
この記事を見た方がもし第二海堡を見学することになったならば、是非「戦跡」という角度だけでなく、120年間現役で過去と現在が混在する島の様子を感じてほしい。第二海堡は資料に乏しく戦跡として未解明な部分も多い上に、現在活躍している設備にも機密に覆われた部分が多く存在する。今もなお神秘のベールに包まれながら活躍する第二海堡の新たな一面を発見するのは、次に上陸する貴方かもしれないのだ。
※このページの情報は2023年8月現在のものです。 写真・文 阿部遼平
この記事を書いた人
マニア目線で船&史跡を徹底解説!
阿部 稜平(あべ りょうへい)
2001年生まれ。船舶、海運、海洋科学などの話題を中心に執筆する海事系ライター。同人活動をきっかけに、フェリー、クルーズ船、練習船、軍艦など多様な船舶への乗船と取材を経験。現在は横浜港、横須賀港、東京港をメインに活動中。