【音源あり】みんな知ってる「横須賀市歌」には〝幻の初代〟があった!【戦後80年】
♪白波は〜 白波は〜 という歌詞で市民にはおなじみの「横須賀市歌」。
学校で習うこともあり、小さい頃に横須賀に住んでいた方は、ある程度歌えるかと思います。
さらに市内の防災無線やゴミ収集車のチャイムで毎日のように流れているので、住民にとってはちょっと聞くだけでピンとくるメロディーです。
これは今(2025年)から58年前の昭和42(1967)年、市制60周年を記念して作られたもの。
作詞は詩人でフランス文学者の堀口大學(だいがく)。
戦後の昭和25年からずっと葉山町に居住し、後に文化勲章を受章する大家です。
そして作曲はエッセイストとも知られた團伊玖磨(だん いくま)。オペラや交響曲を得意とする重鎮で、横須賀在住でした。
しかし、実は横須賀市歌には、たった8年で闇に葬られてしまった〝幻の初代バージョン〟があるのです。
今回は、その数奇な運命に迫ってみます。
▼ INDEX
とにかく壮大な〝堀口×團コンビ〟の市歌
現在の市歌の歌詞は、「黒船」「維新日本」「飛躍」「天与の地の利」「良港」「造船」「工場競う」「観光都市」「われらが夢」「横断道路」など、壮大な要素がてんこ盛り。
さまざまなお国自慢に続いての5番(←そう、5番まである!)にある「横断道路」というのは東京湾横断道路のことでしょうか。「天(あま)そそる」「ひと跨(また)ぎ」と歌っていますから、横須賀の悲願をこれでもか、と盛り込んだ大作です。
そしてもちろんメロディーも、まさに團伊玖磨先生の真骨頂である交響曲的な重厚さ。
毎日のように聞いているのもあるかと思いますが、とにかく爽やかに耳に残る曲です。
感動すら覚える名曲かと!(←筆者個人の感想です)
まあとにかくぜひ聞いてみてください!
音源はこちらのページの下部にあります↓
ジャケット写真がザ・昭和ですが、これは西海岸・秋谷とか立石とかの白波風景かと思います。
市制30周年で昭和初期の売れっ子コンビが登場
しかし、この「横須賀市歌」には〝幻の初代バージョン〟があったことをご存じでしょうか。
現在の〝堀口×團コンビ〟作品のずっと前に、さらに壮大な市歌が存在していたのです。
その歌が作られたのは、今から88年前の1937(昭和12)年。
市制30周年を記念してのものでした。
作詞は、北原白秋(はくしゅう)。
♪雨はふるふる〜 の歌詞で知られた『城ヶ島の雨』などを手がけた詩人です。

この北原白秋は三浦市ととてもつながりが深いので、また改めて取り上げようと思いますが、戦前まではまだ映画はもちろんテレビも無く、娯楽と言えば活字とレコード音楽がメインだったわけで、そうなると流行した作品を手がけた作家や詩人が「国民的文化人兼スター」なのです。
今で言う超有名なアーティストやTVでひっぱりだこの俳優のような存在の1人が、先ほどの堀口大學やこの北原白秋でした。
そして作曲は、山田耕筰(こうさく)。
「この道」「赤とんぼ」などを手がけ、教科書でもおなじみですね。
彼も、当時押しも押されぬ超有名作曲家でした。
そういえば、童謡の「ペチカ」とか「待ちぼうけ」は北原白秋&山田耕筰コンビの作品です。
この2大スターが作る曲はとてもよく売れるので、レコード会社(当時のコロムビア)が躍起になってリリースに奔走したのは想像に難くありません。
その一環で、さまざまな自治体の記念歌を数多く作っていったのです。
それが、初代「横須賀市歌」——。
さっそく、歌詞を見ていきましょう。
〝白秋×耕筰コンビ〟の市歌はさらに壮大
初代バージョンの歌詞は3番まで。
1番ではいきなり「♪旭日(きょくじつ)の輝やくところ〜」から始まり、「艨艟(もうどう) 城とうかび〜」と続きます。
この艨艟(もうどう)とは、軍艦のこと。
そう、昭和初期の横須賀は、そういう場所だったのです。
こうなると、もう勢いは止まりません。
「金鉄(きんてつ)の貫くところ」「響け軍都」「工廠(こうしょう) 光赤く」「見よや東亜」——そして締めは「勢(いきお)へ我が都市」「横須賀 大を為(な)さむ」と何とも勇ましい。
まさに88年前の世相をさらにカチカチにしたような歌詞ですが、やっぱり気になるのは〝それしかないんかい!〟というほどの軍都推しです。
どうなんでしょう、やはり〝それしかなかった〟というのが正解かもしれませんね。
しかし一方で〝白秋×耕筰コンビ〟は、自治体のみならず全国の社歌や校歌などを当時大量に手がけていたそうなので、実際のところ、あまりよく考えずに量産した一面があったかもしれません。
それは当時、こうした歌を大量にばら撒くことによって国威発揚につなげる、言わば〝プロパガンダ〟の側面があったことも忘れてはなりません。
それにレコード会社が乗ってビジネスをした、というのが何とも闇の一面なのでしょう。(←筆者個人の感想です)
どうした!?白秋
しかしそれにしても、気になるのが北原白秋によるその歌詞です。
「雨はふるふる 城ヶ島の磯に」「それともわたしの忍び泣き」「濡れて帆あげた ぬしの舟」——
という『城ヶ島の雨』を発表したのが1913(大正2)年。
それから24年後には人が変わったように勇ましくなってしまっています。
城ヶ島の時は、実は直前にとんでもないスキャンダルが起こっているのでその影響はあるかもしれませんが、それにしても、いくら日本を代表する有名人になったからと言ってこの変わりようはすごい。
彼は晩年に視力をほぼ失い、その頃には国家主義的な傾向が強くなったそうですが、繊細な筆を180度変えてしまうくらい、戦時下の動きは文化にも重い影を落としているのがよく分かります。

山田耕筰もまた・・・
ちなみに、作曲した山田耕筰もまた、戦前は体制に協力し、数多くのプロパガンダ的な曲を発表し、音楽界を引っ張ってきました。
それが元で戦後は〝戦犯論争〟が起こったりしていますが、一流の芸術家も巻き込まれてしまうのがこの時代。
生きるために筆を曲げる人も数多くいたのでしょう。
北原白秋は戦争末期に亡くなってしまいますが、もし生きていたら、戦後どういう思いをしたのでしょうか。
ちなみに、團伊玖磨はこの山田耕筰の弟子でした。
横須賀市歌を通じて、不思議な縁があったのです。
あの人の歌声がよみがえる!
さあ、ここまで来ると、やっぱり初代『横須賀市歌』を聞いてみたくなりますよね!
あっその前に。
現在、音源(パブリックドメイン)は「国立国会図書館 歴史的音源」で聞くことができますが、そこにある〝独唱〟バージョンを歌っているのは、あの伊藤久男!
当時のコロムビアの超有名歌手で、しかも第2次世界大戦中には数多くの軍歌(戦時歌謡)のレコードを出してスターになった人です。
作曲家・古関裕而(こせき ゆうじ)さんとのコンビも有名で、NHKの連続テレビ小説「エール」で山崎育三郎さんが演じられたことでご存じの方も多いかと思います。
彼もまた、戦後は戦争責任を感じて悩んだといいます。
たった8年でお蔵入りになった幻の曲
市の公式歌ですから、本来はずっと残って歌い継がれるもの。
しかしこの初代バージョンは戦後、公式の場で演奏されることはありませんでした。
それはそうですよね。
内容から言って「もう無かったことにしよう」、と思っても不思議ではありません。
市制30周年を記念して作られた初代の『横須賀市歌』は、実質的にたった8年の命だったのです。
さて、いよいよ。
さまざまな思惑が交錯してたった一瞬世に出た、まさに〝幻の初代バージョン〟を、ぜひ聞いていただければと思います。
令和7年、戦後80年&市制118年の年に、平和を願いながら改めてじっくり聞きたい曲かもしれません。
伊藤久男さんの「独唱」バージョンが特におすすめです。
こちらからどうぞ!↓
独唱:横須賀市歌(市政三十周年記念)
北原 白秋[作詞] ほか『独唱:横須賀市歌(市政三十周年記念)』,コロムビア(戦前). 国立国会図書館デジタルコレクション https://rekion.dl.ndl.go.jp/pid/8275315 (参照 2025-02-17)
合唱:横須賀市歌(市政三十周年記念)
北原 白秋[作詞] ほか『合唱:横須賀市歌(市政三十周年記念)』,コロムビア(戦前). 国立国会図書館デジタルコレクション https://rekion.dl.ndl.go.jp/pid/8275314 (参照 2025-02-17)
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