【戦後80年】倒された石碑〜「ペリー上陸記念碑」は2度建った!?【今年の花火は8/2】

7月14日』という日は、横須賀にとって、いや日本にとって記念すべき日。
そう、今から172年前のこの日、アメリカのペリー提督が日本に初上陸をしたのです。

それを記念して建てられた「ペリー上陸記念碑」は横須賀の定番観光スポットとしておなじみですが、実はこれ、《2度目に建った》ものなのです。
今から80年前に訪れた、この碑をめぐる騒動とはいったい——?


ペリーは〝代打〟で歴史に名を刻んだ!?

1853年7月8日(旧暦:嘉永6年6月3日)昼頃。
城ヶ島の漁師4人が漁をしていたところ、松輪沖を航行する艦隊を発見します。
日本を震撼させた大事件の始まりでした。

実は当初ペリー提督は日本へ行く予定はなく、グレアム海軍長官から日本遠征の計画立案を依頼されていただけでした。
指名されたのは、オーリック大佐。
ところが彼は1852年に日本へ出港後、中国で体調を崩したうえに数々のスキャンダルが噂され、解任されてしまいます。

そして翌年、ケネディ海軍長官からあらためて全権を一任されたペリーは、日本へ向かうことになるのです。
旗艦は新造の蒸気船「サスケハナ号」。ペリーは当初「ミシシッピ号」を旗艦にしようとしていましたが、司令官室が無かったためにサスケハナ号になったといいます。
オーリックが旗艦にしていましたから何とも縁起が悪い、と思ったのでしょうか。ペリーに代わる経緯も含めてちょっときな臭い感じがしますね・・・。
さらにプリマス号、サラトガ号を加えた4隻が日本を目指すのです。

これについても、当初ペリーは大艦隊での遠征をもくろんでいました。
というのも、アメリカ政府からの指令が「日本の沿岸のもっとも適当と思われる場所に艦隊を集結させ、その場所で軍事的な圧力をかけて交渉せよ」というものでした。
圧倒的なパワーで脅しつつ、「アメリカの捕鯨船などへの食料提供や修理、補給」「複数の港への入港許可と貿易」を求めるというのです。
最終的には4隻になってしまいましたが、日本に兵力を見せつけるには十分、と考えたと思われます。

こうして〝代打〟でペリーが登場することになったわけですが、結果的に彼が、歴史に名を刻むことになります。

浦賀沖に艦隊が集結した模型(ペリー記念館蔵)。手前が旗艦サスケハナ号

浦賀奉行所は板挟み!

ペリー艦隊の来航という不意打ちにより、浦賀は上を下への大騒ぎ・・・というイメージがありますが、実際のところは、この時期は外国船の来航が相次いでいたこともあり、案外平静な状況だったようです。
それどころか、アメリカの蒸気船ということが分かると物珍しさも手伝って見物人でごった返していたそう。

17時頃、ペリー艦隊が浦賀港に停泊すると、事前のマニュアル通り浦賀奉行所の呼びかけで御固(おかため)船(警護船)がドッと繰り出し、100隻以上で艦隊の周りを取り囲んでガッチリとガードします。
そこから歴史的な日米交渉がスタートするわけです。
この時中島三郎助(さぶろうすけ)が〝嘘〟を繰り出して始まった交渉は有名ですが、それはまたの機会に!

日本政府への要求を記載したフィルモア米大統領の親書を将軍に直接手渡したい、というのがアメリカ側の意向。
しかし外国との交流は長崎だけ——これが幕府の掟だったため、史上初の事態に江戸幕府は混乱します。
そうなると、出先機関であり交渉の矢面に立っている浦賀奉行所の役人たちは大変。
アメリカと幕府の板挟みの中、にらみ合いが続くのです。

そしてついに「久里浜で国書を受け取る」という、超イレギュラーな形で儀式が行われることが決定します。

陸から海から徹底ガードの図(ペリー記念館蔵)

「久里浜ペリー祭」2025年は8月2日の開催!

1853年7月14日(旧暦 嘉永6年6月9日)、ついにペリーが久里浜に上陸します。
日本側は急ごしらえで応接所を建て、迎え入れます。

上陸の図(ペリー記念艦蔵)
現在の久里浜海岸

「交渉」ではなく、ただの「国書受け取り」という体裁にしたため、日本側が無言で受け取る、という実にアッサリした儀式だったようです。
アメリカ側はとりあえずミッションを達成したうえに威力を見せることができたわけですが、江戸幕府にとっては実に困ったセレモニー。この返答は翌年になるのですが、外国との関係をめぐって国内は大混乱に陥り、すでに弱体化していた江戸幕府はやがて滅亡することになるのです。

とにもかくにもこの日、歴史を変える〝第一歩〟がここに記され、「7月14日」というのは横須賀、いや日本にとって忘れられない重要な日となりました。
毎年、この前後の週末には「ペリー祭」が開催され、花火大会が行われるのが地元の定番。
子どもたちにとっては、この花火が三浦半島に夏休みの訪れを告げる合図、とウキウキしちゃう行事なのです。

さて今年も7月14・・・と思いきや、なんと2025年に限っては【8月2日(土)】の開催
その代わり、例年の5000発から今年は何と7000発までパワーアップするそう。
ぜひ、172年前のペリーの姿を頭に描きつつ、大輪の花火をたっぷり堪能してみてくださいね。

■くわしくはこちら↓


日米友好ムードの中で超豪華除幕式

さて前置きが長くなりましたが、ここからいよいよ本題。
この歴史的な場所に「ペリー上陸記念碑」が建てられたのは20世紀に入ってからのことでした。
ペリー艦隊の乗組員だったアメリカ軍人が久しぶりに日本に来たら、この場所に何も無かったことを悲しんだというエピソードを聞いた米友協会(のち日米協会)が国内外から寄付金を集めて制作し、1901(明治34)年7月14日に除幕式が行われました。

碑の高さは5.25m。
仙台産の花崗岩が用いられ、重量(碑のみ)は10トン余りあるといいます。

この除幕式がまあ豪華。
日本から4隻、アメリカから3隻の軍艦が出動し、東京からは臨時列車を運行し、横浜からはチャーター船。
出席者は日本だけでも首相・桂太郎をはじめ、児玉源太郎(陸軍大臣)、山本権兵衛(海軍大臣)、さらには海軍の西郷従道、陸軍の大山巌、そして榎本武揚や渋沢栄一も列席するなど、総勢1,000名ほどの参加者だったそう。

極めつけは揮毫(きごう)。
建設決定時の総理大臣だった伊藤博文の文字が採用されています。
政財界を挙げての取り組みというところに、日米関係を重要視する姿勢が見られます。

当時は日清戦争(1894〜1895)後の三国干渉で列強の圧力を痛感していた頃。1902年には日英同盟が成立した一方で、1904年には南下するロシアと大陸で利害が衝突、日露戦争が勃発する前夜という時でした。

日米関係で言えば、まだこの時の日本はアメリカとの貿易や文化交流を重視し、多くの日本人が移民としてアメリカに渡っていました。
一方で、アメリカ西海岸では日本人移民への差別が強まり、両国関係に緊張が生じ始めていた頃。
そんな友好と摩擦が微妙に混在する時期に、象徴的な碑が建てられたというわけです。


憎しみの対象になるペリー記念碑

しかし——
ペリーが来航してから88年後、日本とアメリカの関係は破綻。太平洋戦争に突入します。

そうなると、今度はこの碑が両国の板挟みになっていきます。
〝「親米思想の遺物」だとして地域や軍のなかで撤去についての賛否両論が長く繰り広げられて〟いたというのです。

例えば、大政翼賛会(国策協力のための国民運動組織)傘下団体の1つであった翼賛壮年団は〝ペリー記念碑を粉砕し、靖国神社の参道に撒いて参拝者に踏み付けにしてもらおうと計画した〟ほどで、それを横須賀鎮守府長官に訴えたところ「記念碑には罪は無く、倒してしまおうとは大国民としてあまりに大人気(おとなげ)ない、そんなに憎いのならば碑に喪章でも着けたらどうだ」と言われたというエピソードが何とも興味深いです。

しかし、この碑に〝天誅(てんちゅう)〟を加えろ!という声は日に日に高まっていきます。
「(前略)この碑こそ、今を去る九十三年前、すなはち嘉永六年東洋制覇の野望を胸に秘めて来朝、どう喝外交の砲口を江戸の幕末政府に向け、わが鎖国の夢を破って開港を迫った米国東洋艦隊司令長官ペルリが、その泥靴を神州に踏みつけた記念碑である」(「神奈川新聞」1945(昭和20)年2月4日付)という声も。
後から考えればまさに「お門違い」というところでしょうが、当時はこれが一般の人にも浸透していた論調だったのです。

——こんな〝倒せ倒せムード〟の盛り上がりを誰も止めることはできず、最終的に記念碑の保存会会長だった神奈川県知事の許可を受けて、1945(昭和20)年2月8日、ついに引き倒されてしまったのです。
この日は「大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)」といい、国民の戦意高揚のために毎月もうけられていた記念日でした。
しかもこの日、なんと藤原知事自ら撤去に加わって「国辱的記念物を永遠に砂中に葬り去る」ことになったと報じられています。

翌日の『神奈川新聞』には、「宛(さなが)ら〝米国倒るる音〟 一億の怒りにペルリ上陸記念碑潰ゆ」という見出しとともに衝撃的な写真が・・・。

「神奈川新聞」1945(昭和20)年2月9日付

「ペルリ上陸記念碑神土より抹殺の瞬間」という恐ろしいキャプションが、当時の空気をよく表しています。
かなり不鮮明ですが、うっすらロープのようなものが見えますから、大人数で力を合わせて引き倒すことが、戦意高揚の儀式のようになっていたのでしょう。

こうしてアメリカを撃破する、という疑似体験の材料にされた碑は、あっけなく倒されてしまったのです。
終戦わずか半年前の出来事でした。

倒された記念碑〈戦後1945(昭和20)年撮影〉
(横須賀市立中央図書館郷土資料室提供)

超大物の怒り?でスピード復活!

さて、本当に「倒された記念碑は粉々にされ、靖国神社の参道で踏みつけにされた」のでしょうか?

——どうやら、碑は周辺に放置されていましたが、割られたり傷つけられたりはしていなかった模様。

横須賀にはほとんど空襲は無かったとはいえ、終戦間近のこの時、そんなことをしている余裕など無かったのか、倒すだけ倒してそれで気が済んでしまったのか、それとも「大国民」の良心が少しは働いていたのか・・・。

碑があった場所には、当時の著名なジャーナリスト、思想家だった徳富蘇峰(とくとみそほう)の筆による「護国精神振起(しんき)之碑」が置かれていたそうです。


そして粉々にしなかったおかげか、戦後にこの碑は復活するのです。
・・・しかも、あっという間に!

「戦後横須賀に上陸したニミッツハルゼーらの米軍将校らは、倒されたペリー上陸記念碑を見ると日本側に直ちに再建を命じ」ました。
ニミッツ、ハルゼーと言えば、当時のアメリカ海軍で世界的に知られた提督。
言わば〝鶴のひと声〟でこの碑に復活の指示が下ったのです。

久里浜海岸での爆弾処理〈1945(昭和20)年撮影〉
(横須賀市立中央図書館郷土資料室提供)

そうなると慌てたのは日本側。
記念碑の撤去に携わった人々は、戦犯にされるのでは?との恐怖におびえたといいます。
自ら2月の撤去に加わってしまった藤原神奈川県知事はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の尋問に「すべて自分の責任」と認めました。
しかし結局、誰も処分されることはありませんでした。

さて、ここからが大変。
撤去にも関わった建設会社によって台座の周りに足場が組まれ、碑を丁重に扱いながら滑車を用いて立ち上がらせました。

足場が建てられる <1945(昭和20)年撮影>
(横須賀市立中央図書館郷土資料室提供)

こうして1946(昭和21)年2月、見事ペリー上陸記念碑は復活するのです。
一説には「1945年11月」だったという記録もありますが、いずれにしても終戦から半年、倒してからわずか1年で元の姿になったのでした。

碑を起こすのも大変 <1945(昭和20)年撮影>
(横須賀市立中央図書館郷土資料室提供)

ああ粉々にしなくて良かった・・・と関係者はみんな思ったことでしょう。
そもそも、引き倒した時に割れなくて良かった・・・と胸をなで下ろしたかも。

終戦直後の大変な時に、つい先日倒したばかりの碑を再び立たせるなどという作業に没頭するのは何とも・・・。
しかしスピード感を考えても、それだけ米軍の怒りが大きかったことが想像できます。


歴史の荒波に翻弄された日米友好のシンボル

とにもかくにも復活したペリー上陸記念碑。
早くも1947(昭和22)年7月14日には「ペルリ祭」が行われるなど、戦後も日米友好の象徴として横須賀で大切に扱われてきました。

久里浜海岸とペリー上陸記念碑〈1972(昭和47)年撮影〉
(横須賀市立中央図書館郷土資料室提供)

目の前の久里浜海岸でワカメを干していたこともあったのですね。
現在のペリー上陸記念碑のある場所は「ペリー公園」となっていて、敷地内にはペリー来航の歴史を展示した「ペリー記念館」があります。

入口脇と2階にはペリーと、当時の浦賀奉行・戸田氏栄(うじよし)の銅像が2つずつあります。
しかもそれぞれ巨大!
ペリーの銅像はあちこちにありますが、どれも顔が微妙に、というかかなり違うのが面白いですね。
ペリー記念館にある2人の姿はこちら。

ペリー
戸田氏栄

記念碑を眺めるように鎮座する、主役2人。
その後に起こった日米の戦争がもたらした悲劇、そして碑の撤去と復活を見て、いったいどんなことを思ったでしょうか。

1945(昭和20)年の久里浜海岸
(横須賀市立中央図書館郷土資料室提供)
2025(令和7)年の久里浜海岸

日本で初めてアメリカの使節と向き合った浦賀の街、そして日米がつながる〝第一歩〟が記され、その後の日米関係の最前線になった久里浜。
横須賀に来たら、ぜひこの2つの場所にも足を運んで、知られざる歴史を感じてみてはいかがでしょうか。


■参考文献
『浦賀奉行所』 西川武臣著 (有隣新書)
『新横須賀市史』 通史編 近世、近現代 / 資料編 近現代(横須賀市)
『新稿 三浦半島通史』 安池尋幸監修 (文芸社)
ペリー上陸記念碑 (ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典)
『神奈川新聞』WEBマイクロフィルム
■写真提供
横須賀市立中央図書館郷土資料室

この記事を書いた人

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