【車で入れる弾薬庫?!】長浦港の歴史を辿る、田浦臨港線ウォーク【廃線散歩】

横須賀という街が生まれた明治から令和に至るまで、横須賀本港と並ぶ海軍の最重要港であり続けている長浦港。一見すると工場や自衛隊施設などがひしめく「観光地らしくない」場所に感じられます。

だがしかし!!それは長浦地区が世を忍ぶ仮の(?)姿。
横須賀の街を形作った「海軍さん」こと旧日本海軍のディープな産業遺跡は、田浦・長浦地区でこそ楽しめると言っても過言ではないのです!

その中でも「田浦臨港線」は、戦前・戦後ともに横須賀の街を支えた、まさに歴史の生き証人。
一歩足を踏み出せば、至る所に150年を超える横須賀の歴史が詰まっているのです。


はじまりは田浦駅

横須賀の歴史を辿る一駅廃線ウォークは、田浦駅からスタートです。

田浦駅のトンネルも語るに外せない歴史遺産なのですが、今回はちょっと別のところを見てみましょう。
今では横須賀線の各駅停車が停まる、落ち着いた雰囲気の駅ですが…

海側(写真左)を見ると、何やら草むらの中に線路が見えます。ポイントが分かれて、こちらの線路に向かってくるようです。

この線路こそ「田浦臨港線」が横須賀線から分岐していた跡!
線路はそのまま伸びて、写真奥左側のトンネルに続き、海側へカーブして長浦港へ向かっていました。田浦臨港線は乗客を乗せることのない「貨物線用線」で、田浦駅から分岐して長浦港への物資輸送を担っていた路線なのです。

こちらは戦後間もない1946年にアメリカ陸軍が作成した横須賀の地図。
田浦駅を起点に、縦横無尽に線路が張り巡らされている様子が見てとれます。現在残っている廃線跡の終点は「比予宇(ひよう)トンネル」ですが、当時はその先の吉倉地区までレールが続いていました。


旧海軍時代から現役の倉庫たち

こちらの写真の倉庫は「海軍軍需部第一水雷庫」として建設され、戦前は魚雷や機雷などを管理していました。

ここを右へ曲がり、横須賀駅方面へ向かって歩いてみましょう。

この蔦が絡まる年季の入った倉庫は、第三水雷庫、あるいは兵器修理場など、用途について諸説あります。いずれにせよ旧海軍時代から80年以上そのまま佇んでいることに変わりはありません。

こちらのトゲトゲした特徴的な建物は兵器修理場といわれています。が、戦後は大胆にジョブチェンジして低温倉庫として使われていたそうです。ただの工場建屋を保温性が高い低温倉庫に作り替えるのはなかなか骨の折れる作業だったことでしょう。

木枠の窓と四角いタイル、それに重い鉄の扉がひときわ古さを感じさせるこちらの建物は、光学兵器倉庫
レーザーガン?!と一瞬びっくりしてしまうようなネーミングですが、当時の「光学兵器」とは双眼鏡や照準器、潜望鏡、カメラなどのこと。一方対岸の米海軍では、ついにレーザー対空砲を装備したイージス艦が横須賀に実戦配備されたといいます。もしかしたら私たちが生きている今こそ、「未来」と呼ぶべき時代なのかもしれません…。

そんな旧光学兵器倉庫ですが、モルタルの剥がれ目をよく見ると赤レンガの地肌が露出しています。
今でこそモルタルやトタンなど様々な手法で補強・修繕されている倉庫たちですが、これらが建設された大正当時は多くの建物がいわゆる「赤レンガ倉庫」の姿でした。化粧をしつつも芯は変わらず、ずっと働き続けているのです。


長浦の倉庫が救った命

田浦に兵器工場、本港で軍艦の整備補給という複合的な巨大軍港になっていった横須賀。必然的に、その間に位置する長浦には大量の倉庫が造られることとなりました。
当然ながら終戦によって横須賀軍港は連合国に接収されることとなり、それは田浦や長浦も例外ではありません。軍港本体はアメリカに接収、工場などは順次接収解除のうえ民需へ転換していくこととなります。

時は戦後混乱期、極端な食糧不足によって全国民が飢えに苦しむ世の中です。日本を占領していた連合国もさすがにこの様子を放置することはできず、GHQによる緊急食糧支援を行うこととなります。ところが日本の主要港は空襲によって悉く破壊され、大型船の入港が困難になっていました。

ここで思わぬ脚光を浴びたのが、今まで単なる倉庫地区だった長浦。
そもそも横須賀周辺は空襲による被害が比較的少なく、港湾機能へのダメージは限定的でした。さらに海軍時代に建てられた大量の倉庫は、次々やってくる輸入品の一時保管や管理にうってつけ。おまけに各倉庫までは田浦臨港線が整備されていて、横須賀線を通じて日本の大動脈である東海道本線まで迅速に輸送できる体制まで整っていました。

こうして長浦港は「緊急食糧受入港」に指定され、支援物資搬入の重要拠点となります。
輸入されたのは米、麦、塩、粉乳といった生存に不可欠な食料から、作物生産を助ける肥料など多岐に渡ります。これらGHQによる支援物資をきっかけに学校給食が始まり、児童の栄養状態が大幅に改善されたことは有名な話。戦後の飢餓状態において、長浦港からの物資によって救われた命は数え切れないでしょう。

焼け跡から立ち上がる戦後日本にとって、長浦港はなくてはならない存在だったのです。


線路の上を歩いてみよう

倉庫群からすぐ足元に目線を移すと…

何かレールのようなもの…というか、路面電車の線路みたいなものが見えます。これこそ正真正銘「田浦臨港線」のレールなのです!
道路に隣接して敷かれた田浦臨港線は、横須賀線から先ほどの倉庫群の前まで直接貨車を引き込み、迅速な積み下ろしを行うための路線だったというわけです。

特に一部の水雷庫などでは倉庫の中にも線路が伸びており、貨車ごと倉庫にインできる構造になっていたといいます。さすが帝国海軍、やることがアクロバティックですね。

今やこの線路の上を列車が走ることはありませんが、その代わりに線路を歩道として使うことができます!普段はできない貴重な体験、ぜひ当時の様子を思い浮かべながら歩いてみてください!

少し歩いて横須賀税関支所前では、分岐の様子も詳しく見ることができます!
木製の枕木や犬釘、さらにレールを連結するタイプレートという部品まで綺麗に残っており、鉄道ファンならば大興奮間違いなしの逸品です!

税関横を抜け吾妻橋という橋を渡ってまたしばらく歩いて行くと…

突然「井」の字のようなひときわ目を惹くレールが現れます。

これは「ダイヤモンドクロッシング」と呼ばれるレールで、知る人ぞ知るレアなレール!線路同士を直角に交差させるときに使います。
日本の鉄道では、現役なのは残りわずか4箇所!廃線跡でも綺麗に現存しているのはとても珍しく貴重です。レールを細かく切って並べている様子や独特の構造を、ぜひ見て触れて、間近で体感してみてください。ここまで現役の雰囲気たっぷりに残っているのは全国広しといえど田浦くらいのものです!


線路の終点は「比与宇トンネル」

戦後の焼け跡から復活し、高度経済成長を経た長浦・田浦地区。捕鯨の撤退などの業態変化やトラック輸送の発達など、社会情勢の変化によって港湾倉庫からの鉄道貨物輸送の必要性は低下していきます。戦前、そして戦後も各区画ごとに緻密な路線網を形成していた田浦臨港線ですが、最後に残ったのはアメリカ軍が使用する航空燃料を横須賀港へ搬入し、貨物列車で厚木基地などに輸送するための線路でした。

この「比与宇トンネル」はその時も折り返し線として使用されていて、最後まで現役で残った線路の一つ。現存する田浦臨港線の廃線跡もここが終端となっています。

昭和期に開削されたトンネルで、コンクリートが使用されているのが特徴です。
トンネル壁面を見ると、コンクリートを流し込む型の跡を見ることができます。大正期から建設が始まったコンクリート製トンネルですが、初期のものはレンガと同様にブロックを積んで作られていました。昭和に入ると現地でコンクリートを隙間なく充填する技術が発達し、比与宇トンネルのように現地で型に流し込む工法が採用されるようになっていきました。当時の最新工法というわけです。

さらに海側の車線を見ると、路面に二本の盛り上がりが。
これこそアスファルトの下にレールが埋まっている証拠!比与宇トンネルは一般道路と線路で共用というとても珍しいトンネルでした。


真の姿は「日本海軍の弾薬庫」

トンネル自体も貴重で価値ある遺産といえる比与宇トンネルですが、真の姿はトンネルのさらに内部に隠されています。古いトンネルで歩道が狭いですが、車に注意して入ってみましょう。

なにやらコンクリートブロックで塞がれた横穴のようなものが現れました。

これこそ比与宇トンネルの真の姿、「海軍軍需部比与宇弾薬庫」への入り口だった横穴!
比与宇トンネルは、旧海軍関連遺産の中でも珍しい「車で入れる弾薬庫跡」なのです。

比与宇トンネルの周辺である「比与宇地区」には、海軍時代から現代に至るまで多くの弾薬庫が置かれていました。とりわけ大規模なのがこの「比与宇弾薬庫」で、その全容はなんと全長約2.3kmのトンネルによって構築された巨大な地下弾薬庫
火薬や弾薬を積んだ貨物列車はトンネルの中に停車し、そこから地下壕の中へ直接収納していたのです。戦時中は学徒動員された学生も従事しており、例えば昭和19年10月から終戦までの間、逗子開成中学校の1年生などが弾薬の積み下ろしや砲弾、薬莢の仕分け・箱詰め作業を行っていたという記録が残っています。


なぜトンネルを弾薬庫に?

比与宇トンネルがこのような構造になったのには、軍事施設としての深いワケが。
そもそも、弾薬庫というのは大量の火薬を保管する施設。何かの間違いで引火すると、大爆発事故が起きてしまいます。とりわけ首都防衛の拠点である横須賀海軍鎮守府、そのような場所が爆発事故が起こればその影響は計り知れません。
そこで地下にトンネルを掘り、その中で火薬を保管するというわけです。万一爆発事故が起きても周囲への影響を抑え、さらに敵の空襲や砲撃に対しても高い防御力で被害を抑えることができます。

そして、トンネル内での積み下ろしにはさらにメリットが。
作業中の空襲による被害を防ぐほか、敵の飛行機による偵察を受けないため、作戦に備えて搬入された物資の種類や量などを秘匿することができたのです。
なるほど、今から見ると不思議な構造ですが、確かに軍事施設として優れた設計です。

地下壕への入り口は塞がれていますが、全長130mのトンネルの中に4つあります。ここに弾薬を満載した貨物列車が停まって、さらに運搬作業に中学生や高校生が動員されていたのです。戦後80年、日本という国が忘れてはならない歴史を、目の前で感じることができます。


田浦と臨港線の未来

明治19年に海軍の兵器工場ができてから、およそ140年の月日を軍と共に生きてきた田浦。
戦後はその用途を平和産業に変えつつも、近年では自衛隊・アメリカ海軍関連施設の刷新・整理によって「海軍」という組織との新たな関わり方を模索している街でもあります。
そんな動きの中で、長浦倉庫群、そして田浦臨港線跡に残る戦前・戦後の痕跡は徐々に失われつつあります。しかし、それは田浦が今も「港町」として生き続けているからに他なりません。

未来へ向かって変化し続ける側面と、海軍都市としての歴史を今に伝える遺産としての側面。
今まさに、日本という国と共に転換期を迎えようとしている田浦という街を、ぜひ歩いて、そして感じてみてはいかがでしょうか?


Courtesy of the University of Texas Libraries, The University of Texas at Austin
古地図提供:テキサス大学オースチン校図書館 デジタルアーカイブより

この記事を書いた人

マニア目線で船&史跡を徹底解説!

阿部 稜平(あべ りょうへい)

2001年生まれ。船舶、海運、海洋科学などの話題を中心に執筆する海事系ライター。同人活動をきっかけに、フェリー、クルーズ船、練習船、軍艦など多様な船舶への乗船と取材を経験。現在は横浜港、横須賀港、東京港をメインに活動中。

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