【横須賀ゆかりの名空母】軍艦「剣埼」と横須賀軍港の足跡を辿って

明治4年に現存する日本最古のドックである「1号ドック」が完成してから、70年以上にわたって多くの船を建造し送り出してきた「横須賀海軍工廠」。高い技術力を背景に、今も歴史に名を残す数々の名艦が生まれました。

その中でも横須賀・三浦に縁深く、そしてドラマチックな生涯を送った軍艦が「剣埼(つるぎざき)」。
「高速給油艦」という一見地味な艦種の船が「航空母艦 祥鳳」として生まれ変わり、歴史に翻弄されながら歩んだ道を、横須賀の街並みから辿っていきます。


「剣埼」って、どこ?

戦前、そして戦後も、日本の軍艦に付けられる名前には一定の基準があり、それぞれクラスごとに山や川、旧国名などが艦名として名付けられているのは有名な話。
では「剣埼」はというと、文字通り「岬」の名前です。旧海軍の補給艦は、岬や海峡などの名前が付けられていました(もちろん例外もあり)。

そんな剣埼があるのは横須賀のお隣三浦市、海軍工廠の最寄り汐入駅から電車とバスで1時間ほどというご近所。横須賀生まれで三浦半島の地名を名付けられた、まさに「地元民」な軍艦なのです。

三浦海岸駅を降りて京急バスに乗車し、「剱崎」バス停から歩いて約15分。「剱埼灯台」は東京湾と太平洋の絶景が楽しめる穴場スポットです。

眼下に広がる海岸段丘と独特の海岸植物、そして荒々しい海の織りなす風景は「かながわの景勝50選」にも選出されています。沖に見える対岸の岬が千葉県館山市の「洲崎(すのさき)」で、今いる剣埼と洲崎を結んだラインより北側が「東京湾」と決められています。東京湾と太平洋のちょうど境目の場所というわけです。

灯台入り口の案内がある分かれ道を左に曲がると、この崖の下にある海岸に出ることもできます。荒々しい海の力を感じられる美しい海岸で、人は少なくプライベートビーチ感もあり、大変おすすめです。


生まれた場所は「汐入ターミナル」?!

剣埼が生まれたのはもちろん「横須賀海軍工廠」。第二船台と呼ばれる設備で建造されました。

船台というのは「船体を作るための場所」で、滑り台のようなもの。斜めになっていて、船体を作ったあとスルスルと滑らせて海に浮かべることができます。
第二船台は横須賀海軍工廠で最大の船台。戦艦陸奥、空母飛龍、重巡妙高、軽巡能代など…横須賀を代表する大型艦は、ほとんどがこの第二船台で生まれました。「剣埼」もこの姉妹の一員として、1935年6月に進水し、命を吹き込まれたのです。

こちらは同じく第二船台で建造された重巡洋艦「妙高」の進水式の様子。滑り台状の傾斜、そして巨大な鉄骨のガントリークレーンの様子がよくわかり、当時の迫力が伝わってきます。
第二船台に覆い被さるように設置された巨大な「ガントリークレーン」は、戦後になってからも「造船都市横須賀」のシンボルでした。

そんな横須賀海軍工廠の船台とガントリークレーンは惜しくも老朽化によって解体されてしまいましたが、なんと驚くほど身近な場所に現在でも一部が現存しています。

軍艦ファンの皆様御用達のYOKOSUKA軍港めぐり、その乗船待機列からさらに後ろへ歩いていきます。

海風の爽やかな広場ですが、なにやらボコボコと飛び出た形になっています。
その奥側にご注目!

なにやら古そうな石垣に囲まれたコの字型の空間が現れました。
ここが「横須賀海軍工廠第二船台」の先端なのです!

さらによく見ると、船台の先端が四角く出っ張っているのがわかります。
この四角い部分が、ガントリークレーンの台座の跡!

奥側(米海軍施設側)の台座には、今もガントリークレーンの鉄骨の一部が赤錆びて残っています。
鋼鉄の塊である軍艦を作るためのクレーンの脚。とても大きく堅牢に作られており、想像以上のスケール感に驚く方も多いです。
軍港めぐりに乗船してここを素通りするのはあまりに勿体無いので、ぜひ下船後や乗船前に一度足を運んでみてください!もちろん乗船中にもしっかり見ることができますよ。

横須賀海軍工廠には大きなもので3つの船台がありましたが、戦後も民間に払い下げられ造船を続けました。しかし造船産業の情勢の変化によって造船業は汐入から撤退し、その跡地を再開発して誕生したのが「コースカベイサイドストアーズ」。

軍港めぐり汐入ターミナルは、多くの名艦船を建造した船台たちが生まれ変わった姿なのです!

第二船台があった場所は駐車場やイオンスタイルの一部、隣の第三船台は美味しいカレーが楽しめる「よこすかグルメ艦隊」などが出店している位置にあたります。汐入ターミナルがあるのは、ちょうど潜水艦船台第三船台の間にある作業場の位置。
コースカを訪れた際は、是非みなさまそれぞれの推し艦に思いを馳せながら、お買い物やお食事を楽しんでみるのはいかがでしょうか?


進水からが長かった…「剣埼」建造の真の目的とは?

高速給油艦として建造が始まった「剣埼」ですが、真の目的は給油艦ではありませんでした

時は1930年代中盤、海軍軍縮条約の失効を目前に、各国海軍では大軍拡競争の気配が溢れていました。
欧米列強に遅れを取ってはいけないと考えた旧海軍は、「軍縮条約が切れたらすぐに空母に改造できる船」を今のうちに作っておこう、と考えます。

「高速給油艦」の本質は「作りかけの空母」だったというわけです。

そして予想通り海軍の大拡張が始まったことで、工廠には大量の建造待ちが積み上がっていきます。

「剣埼」の計画が進んでいた頃、第二船台で建造されていたのは「剣埼」の潜水母艦バージョンともいえる新鋭艦「大鯨」。日本の最先端を突き進む横須賀海軍工廠、最新の電気溶接ディーゼル機関を使用した初の大型艦というチャレンジングな一隻でした。しかし、この後ろに最上型巡洋艦「鈴谷」の建造が急遽差し込まれます。「大鯨」は船台を空けるために急ピッチでの建造を強いられ、溶接の不具合や船体の歪みを解消できないまま1933年11月になんとか進水。その1ヶ月後の12月には「鈴谷」の建造が開始され、こちらも1年かからず進水を迎えています。「剣埼」の建造は、なんと鈴谷」進水から約2週間後の1934年12月に開始。後がつかえるから絶対に遅延してはいけない、工員はとにかく目の回るような忙しさだったといいます。

こうして大忙しの横須賀海軍工廠で建造が始まった「剣埼」ですが、先に建造していた「大鯨」の反省をフィードバックし、電気溶接を駆使しながらも大きな失敗なく建造が進みます。
ところが、空母になりたい…という気持ちが強すぎたのか、設計を修正するたびに肝心の給油能力がどんどんダウン。これでは、いけない…。設計者は頭を抱えます。
しかしちょうどその時、海軍で不足していた補助艦がありました。「潜水母艦」です。

潜水母艦は文字通り「潜水艦に物資を供給する船」で、当時の日本海軍が運用していた迅鯨型潜水母艦は老朽化や能力不足が目立っていました。その穴埋めとして白羽の矢が立ったのが「剣埼」、工事の途中で高速給油艦から潜水母艦へ改造が行われます。
そして進水から1939年、「潜水母艦 剣埼」としてめでたく竣工、すなわち完成と至ったのです。

こちらが「潜水母艦 剣埼」の姿。なんだか全長の割にすごく平べったくて、「飛行甲板のない空母」という感じがしますよね。
出来上がった「剣埼」は、横須賀から目と鼻の先の館山湾で試運転を行い、横須賀海軍鎮守府に所属することに。横須賀を拠点に置いた最新の大型潜水母艦は補給に訓練にと精力的に活動し、潜水艦隊の練度や充足の向上に大きく貢献したのです。
世界随一の実力と言われる海上自衛隊の潜水艦部隊、その源流を作った船のひとつと言っても過言ではないかもしれません。


「剣埼」から「祥鳳」へ!空母化改装も横須賀で

太平洋戦争前夜の1940年11月、いよいよ「剣埼」を航空母艦へ改造する工事が始まります。

工事を担当したのは建造時と同じ横須賀海軍工廠の匠たち。
新技術ということでやはり不調が目立ったディーゼル機関を蒸気タービンに交換するなど、戦隊の建造よりも長い約1年という期間をかけて徹底的にリフォームを行いました。

そして太平洋戦争開戦から2週間後の1941年12月22日、剣埼は「航空母艦 祥鳳」として名前も一新し、その威容を横須賀本港に浮かべたのです。

なんということでしょう。
潜水母艦当時からの低重心なフォルムをほぼそのまま生かし、スリムで軽快な航空母艦へと生まれ変わりました。建造過程でトラブルが続発した「大鯨」や第四艦隊事件といった数々の反省を取り入れており、「祥鳳の完成によって、日本造船界の溶接工法は円熟した」とも言われるほど完成度の高い艦でした。

現代の空母と一味違うのが、艦橋、つまり操舵室の位置。「祥鳳」の艦橋は航空甲板の下にあり、航空甲板上は障害物のないフラットな形状になっています。前から一本目の鉄塔のようなマストの真下あたりを見ると、艦橋を見つけることができます。
視界とか…ちょっと不安になりますね。

そんな「祥鳳」空母化改装の舞台となったのが「横須賀海軍工廠 第四船渠」

ヴェルニー公園からよく見える1~3号船渠のちょっと奥。一際目立つレンガ造りのポンプ場が目印です!
このレンガの建物ももちろん旧海軍時代から現存するもので、大変貴重。

4号ドックは日露戦争を控えた軍艦の増備と大型化の中で建設されたドックで、当時では先進的なコンクリート製。昭和期では巡洋艦や軽空母クラスの艦船が使用していました。現在でもイージス艦の修理や点検に使用されていて、120年前の先人の仕事がいかに偉大であったのかを思い知らされます。

少し離れた浦賀・川間ドックと合わせて、レンガ、石、コンクリートという3つの素材でできたドックが一堂に揃うのは、日本では横須賀市だけ!是非浦賀まで足を伸ばして、8つのドックを制覇してみてくださいね。


横須賀軍港は「空母の本場」

「剣埼」、そして「祥鳳」が生まれ育った横須賀海軍工廠ですが、「4大軍港」の中でも特に航空母艦に関して高い技術力を誇っていました。

世界初の新造空母鳳翔
大和型戦艦の技術を取り入れた最新鋭正規空母の一番艦「翔鶴
戦史に残る武勲艦「飛龍」と、同艦をもとに設計された中型空母の決定版雲龍
そして長らく世界最大の航空母艦であった「信濃」など…

旧海軍を支えた多くの航空母艦を設計し、一番艦の建造を担ってきました。

さらに、横須賀では空母の打撃力の根幹である「艦載機」の開発も行っています。

軍港めぐりで消磁所の隣を抜け、長浦港へ向かう時に見える「追浜エリア」。
ここには通称「空技厰」で知られる「海軍航空技術廠」があり、航空機の開発を行っていたのです!

そのなかの一つが「九六式艦上攻撃機」。
生産数が少なく知名度は低いですが、堅実な設計とバランスの取れた設計で、訓練機や偵察機としても優秀でした。
そしてこの横須賀生まれの艦載機は、横須賀を拠点に内地で訓練を行っていた「祥鳳」にも搭載された記録があります。こんなところにも横須賀との縁を感じますね。
その後も震電、橘花、彗星など、多くの先進的な航空機がここ「空技厰」で開発されました。

戦後は連合国に接収された横須賀軍港ですが、その後アメリカ第七艦隊の一大拠点として活用され、日本国内唯一の原子力空母の配備地となりました。
そして2027年度には、艦船ファン待望の横須賀海自のフラッグシップ「いずも」が「CVM」となって帰ってきます

これまでも、そしてこれからも、横須賀軍港は「航空母艦の聖地」として日本の軍港の中でも唯一の役割を担っていくことでしょう。


横須賀で生まれ、横須賀で育ち、そして横須賀を拠点に活躍した「剣埼」。
太平洋戦争ではポートモレスビー攻略作戦に投入されますが、苛烈な空襲によって武運尽き果て、航空母艦としては日本初の喪失艦となってしまいます。
しかし、当時の関係者の証言、そして剣埼の同型艦である「高崎」こと「瑞鳳」が示した活躍は、「剣埼型」という艦が扱いやすく優れた名空母であったことを語っています。

横須賀には、旧海軍時代や連合軍駐留時代など「過去」と「現在」をつなぐ痕跡があちこちに残っています。
「横須賀ゆかりの空母」、そして「横須賀海軍工廠の歴史」に想いを馳せれば、横須賀の街や軍港めぐりからの風景もまた違って見えてくるのではないでしょうか。

※記事中の古写真はWikimedia Commonsより引用。

この記事を書いた人

マニア目線で船&史跡を徹底解説!

阿部 稜平(あべ りょうへい)

2001年生まれ。船舶、海運、海洋科学などの話題を中心に執筆する海事系ライター。同人活動をきっかけに、フェリー、クルーズ船、練習船、軍艦など多様な船舶への乗船と取材を経験。現在は横浜港、横須賀港、東京港をメインに活動中。

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